西東京市多文化共生センター



┏┏┏ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┏ 世界の国々・人々 ~モンゴル(1)~
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 「世界の国々・人々」と題したこのコーナーでは、ある国にスポットをあて、その国の文化・人々との交流を、不定期ですが、いろいろな形で情報をお届けしていきます。
 今回は、NIMIC代表理事であり、武蔵野大学名誉教授でもある佐々木瑞枝先生の書き下ろしエッセイをご紹介します。

第一回
モンゴル草原からの「手に入らなかった」お土産

 2003年春、武蔵野大学に着任して受け持った大学院生の中にモンゴルからの留学生、ツアツアさんがいた。
 前任大学の横浜国大でもモンゴルの大学生を何人か受け持ったが、ツアツアさんには「モンゴル語の中の外来語」の論文指導をしたこともあり、モンゴルに強く惹かれていく自分を感じていた。

 草原に生きたジンギスハーン
 中国北辺からモンゴル草原、中央アジア、カスピ海にいたる東西5000キロもの国土をおさめたハーン

 ジンギスハーンの物語を読んでいて、「人種や信仰」によって差別することのないハーンのグローバリズムが大きな国土の覇者となっていったのだという確信につながった。

 行きたい・・・モンゴルへ
 見たい・・・大草原を。


 そして、今年の8月、私の夢は実現した。

首都ウランバートルから400キロの道のりを、かつてジンギスハーンが都をおいたカラコルムへ。
大草原には畑がまったくなく、出る食事には野菜がまったくなく、途中にトイレはまったくなく、道路はガタガタで車は揺れにゆれ、朝焼けと同時にウランバートルを出発し、カラコルムに着いたのは、空に星がきらめきはじめた頃だった。

 夜の星空は地平線のすぐ上に広がり、星空が地上を包んでいるようだった。
私は今まであんなにたくさんの星を見たことがない。
 ゲルの外では時々ラクダが夢を見ているのだろうか、不思議な鳴き声で夜空を震わす。

 私は捜した・・・12世紀にあったであろう、モンゴルの印章を。
そして、見つけた。石に彫られた、中国語の印章を。
 石は磨り減り、おそらく、モンゴルの通商で使われたものと思われた。
 私は思いのほかの高額のドルで喉から手の出るほど欲しい印章を手に入れ、なんだかとっても満足していた。
 帰国したら、印章に何と書いてあるのか、調べてみたい。
 カラコルムは12世紀から15世紀くらいまで栄えた都、この印章もその頃のものに違いないと、確信しながら。

 それが、まさか、空港で取り上げられるとは。
 どうして、なぜ??????
 続きはこの次に。
                 

┏┏┏ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┏ 世界の国々・人々 ~モンゴル(2)~
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

第二回
 モンゴルは印章社会だった

 12世紀から15世紀まで栄えたというカラコルム、当時をしのばせるものは、何もなく、都の四方を支えたという大きな亀が、今も草原の風に吹かれ、「昔の光、今いずこ」であった。

 しかし、私はそこで実に珍しいものを手に入れた。磨り減った印鑑と、表はモンゴル語、裏には中国語で文字が記された貨幣だ。
 それこそは、モンゴル帝国がそこにあった証ではないだろうか。

 大モンゴル帝国(イエケ モンゴル ウルス)は1206年にジンギスハーンによって樹立されている。
 ジンギスハーンというと、武力による帝国統一をイメージしがちだが、私はむしろ彼が作った行政組織と印鑑を多用する社会に注目している。
 もともと遊牧民は文書を残さないし、物にも頼らない。事実、現在のモンゴルの人たちも、そのゲルの中の何と簡素なこと、日本人の何十分の、いや何百分の一のもので生活している。
 ジンギスハーン自身は読み書きは全くできなかったといわれているが、統治者としての才能は、他の国が持っている優れたものを導入する鑑識眼にも優れたものを持っている。
 1204年、ジンギスハーンはナイマン族を攻撃し、ナイマン王の印字を預かるタタトンガを捕虜とした。
 そのタタトンガから、ウイグル文字と印鑑の効用を学び、やがて、モンゴル語をウイグル文字で書き表す方法を開発し、ジンギスハーンはモンゴル語の文書によって、行政組織を固めていったのだ。
 ジンギスハーンの命令は文書で表し、そこには必ず印鑑が押された。後の時代になると、この印鑑が乱用され、印鑑主義社会がモンゴル帝国を包んだようではあるが・・・。

 こういった背景を知っている者にとって、「すり減った印鑑」をカラコルムの古びた店で捜したときの驚きと喜びはわかってもらえるのではないだろうか。

 値段交渉の末、50ドルを支払い、私はその石の大きな印鑑を手荷物にして帰国の途に着こうとしていた。
 空港で、まさにそのとき「この印鑑は持ち出し禁止である」と告げられ別室に案内され、まるで尋問されるように、スーツ姿の6名もの係官に取り囲まれ・・・・。
税関吏
「これはいつの時代のものだと思うか」

「おそらく、13世紀から15世紀のものでしょう」
税関吏
「何と書いてあるか分かるか」

「漢字のようではあるけれど、現在は使われていない文字と字体で私には読めない」
税関吏
「これは貴重なモンゴルの文化財である。持ち出し禁止である」

「それはおかしい、私は50ドルを支払ってこれを買ったのであり、それに、私なら、これを大学に持ち帰り、いつの時代のものか、何と書かれているか、調べることができる」
税関吏
 「あなたが研究者であるという証拠があるか」

 そこで私はハタと困った。証拠・・・・ウーン、そして思いついた、昨年ユネスコ60周年記念でパリで開催されたシンポジウムのプログラムがスーツケースに入れっぱなしになっていたのを。

「スーツケースの中に私の身分を示す資料があるので、出させて欲しい」

 しばらくして、私のスーツケースが運び込まれ、中から私はユネスコのプログラムを取り出した。
 UNESCO・・・まるで水戸黄門の「これが目に入らぬか」のようなインパクトがこのプログラムにはあったようだ。まさにそこには、パスポートと同じ私の名前と講演タイトルが堂堂と記されていたのだから。(実は逃げ出そうにも、パスポートを取り上げられていた)
 しばし、スーツ姿の税関吏たちは黙り込み、それからちょっとヒソヒソ、モンゴル語で相談し、おもむろに
税関吏
 「分かりました。あなたが研究者であることは認めます。しかし、この印鑑は我々の国にとっても、調査すべきものです。すみませんが、2か月だけ預からせてもらえませんか」

 まるで別人のような態度だった。私は麻薬密輸組織の一員であるかのような取り扱われ方から、国賓級の待遇に代わったのを感じた。お茶まで運ばれてきたのだから。

 「私の帰国便はどうなっているのですか。その飛行機に乗り遅れると困るのですが」
 税関吏「分かりました。すぐ飛行機までお送りしましょう」

 なにやら、モンゴル語で書かれた書類を渡され、私は帰国の途に着いた。
果たして、その書類に、何が書いてあるのかさえ分からずに。
 それにしても、モンゴルは国の文化財にきちんと気づいているではないか。日本の江戸時代とは大違いだ、ウーン、などと帰りの飛行機ではハラハラした90分がまるで、映画のシーンのように思い出された。
 実はその印鑑はそんなに大したものではないと思っている。きっと、ジンギスハーンの後に訪れた「印鑑乱用時代」のものに過ぎないだろうと。
 しかし、間違いなく、本物の印鑑なのだ。
 私の手に戻ることはあるのだろうか。

                     

┏┏┏ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┏ 世界の国々・人々 ~モンゴル(3)~
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

第三回

 モンゴルの古き都、カラコルムで求めた「磨り減った印鑑」は空港の税関で「文化遺産の調査期間として二ヶ月を要す」と言われ、私は官吏の手書きによる約束の文書(それもモンゴル語で書かれていたのでまったく読めない)を手に、半信半疑で帰国した。

 いったい、カラコルムからウランバートルの間だけ、私に所属した印鑑は私のもとに戻るのだろうか。

 私は帰国後すぐに、武蔵野大学大学院の卒業生のツアツアさんに連絡をとった。彼女は私が武蔵野大学大学院の教授として着任したときの第一期生なのだ。

 「先生、この文書には、調査を終えたら返却します。ウランバートル空港まで取りにきてください」とあります。とツアツアさん。私はそれを聞いて一瞬、これはもう駄目だ、あの印鑑は諦めようと思った。

 「先生、私の父に頼んで、印鑑を取り戻してきます」とツアツアさんは勢い込んで言う。私の執念が伝わったようだ。
 「でも、お父さんだって、忙しいでしょう」
 「いいえ、父ならきっと大丈夫です」
なんと頼もしい一言、私はツアツアさんにモンゴル語で書かれた書類を渡し、その後待つこと数週間、ツアツアさんから連絡があった。

 「父が印鑑を取り戻したそうです。書類があるのに、なかなか返してくれなくて、大変だったそうです」
 やはり、モンゴル人でも大変だったのか。モンゴル語のやりとりで大変なら、英語のやりとりでは拉致があかなかったかもしれない。ということは、やはりあの印鑑は本物?
 それにしても、もし私がわざわざウランバートル空港まで取りに行けたとしても、印鑑がこの手に戻るとは限らなかったわけだ。ツアツアさんのお父さんに感謝・感謝。

 「先生、まだ安心しないでください。今度はウランバートルの空港から日本に持ち出さなくてはなりません。まだ印鑑は父のところにあるわけですから」

 というわけで、印鑑はまだ手もとに戻っていない。この話の結末はどうなるのだろうか。
 次回は印鑑が戻れば、印鑑の話を、戻らなければ、ジンギスハーンの戦闘シーンが再現された時の様子を書くことにしたいと思う。
                

┏┏┏ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┏ 世界の国々・人々 ~モンゴル(4)~
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第四回
モンゴル帝国建国800年 ― ジンギスハーンの軍隊が草原で戦いを繰り広げる?

 ここはウランバートル高原の草原、地球は丸いことを実感させるように四方には草原が広がり、そこに馬のいななきが風に乗って聞こえてくる。
 草原には、強い太陽を遮断するようにテントが張られ、階段状の観客席、私はその観客席の最前列に座り、カメラを構えながら、これからはじまるイベントを歴史劇を見る思いで待ち望んでいた。

「Excuse me for interrupting すみません、ここ空いていますか」、わずか30センチほど、隣の人との間に割り込もうとする人は誰、白髪の明らかにクイーンズイングリッシュと分かるアクセント、多分イギリスの人だろう。

「Yes, please ええ、どうぞ」、私はちょっと左によりながら、にっこり笑ってみせた。

「実はグループで来たのに、みんなどこかにいっちゃって」、とその婦人は嬉しそうに私の隣に座り、「英語が話せるのですね、よかった、これで独り言を言わなくてすむわ」などとのたまう。

 私は頭を頷かせながらも目の前の光景に目を奪われていた。

草原の地平線のかなたまで埋め尽くす甲冑に身を固めた騎馬軍団が、まるで草原の上にかかる入道雲から生まれたかのように、続々と姿を現していたのだ。
 まるで幻のようだった。
 2時間におよぶ壮大なスペクタクル、13世紀、モンゴル帝国がかつてない大帝国だった頃の騎馬軍団を500騎で再現!その騎馬軍は、モンゴル国防省の協力により、すべて軍人で構成されているということだ。
 目の前で戦いの場面が繰り広げられる。なんと言う迫力、私がカメラを望遠にし、夢中でシャッターを切っていると隣の婦人が「甲冑の色がバラバラだわ、イギリスの軍隊ならまず色を揃えるのに」「ね、みてみて、あの兵隊、死んだつもりよ、ほら馬の上で落ちそうになったまま、向こうに行くわ」
 イギリス英語の独り言に適当に相槌をうちながら、私はジンギスハーンの世界に思いを馳せていた。
 9世紀、ウイグルが崩壊し、モンゴル高原の南は契丹の遼や金が支配し、北では遊牧民族の小さな部隊が連合を形成し、覇権を争っていた、そしてジンギスハーン、蒼き狼の登場だ。
 モンゴル高原を手中に収めたのは1202年、「蒼き狼」がモンゴル高原を統一し、全モンゴルのハーンとなったのはちょうど1206年、今から800年前のことなのだ。

 それにしてもモンゴルはそれからどのくらい変わったのだろうか。少なくても、草原も風も空もその当時のままだ。日本でこのように800年も変わらない広大な風景を探すとしたらどこだろう。
 実際のモンゴル兵が、こうしてイベントの準備をし、記念祭で演じてみせるほど、モンゴルは「平和」ということではないだろうか。

 日本の自衛隊が「鎌倉時代」の甲冑に身を固めて、「記念祭」でショーを演じることなど思いも及ばない。今年から防衛省が誕生し、自衛隊は海外での活動を視野に収めていかなければならない。それが「実戦」にならないことを祈るばかりだ。
                   


┏┏┏ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┏ [5] 世界の国々・人々 ~モンゴル(5)最終回~
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 
第五回
 印章の解読

 新宿のローズガーデンでちょっと遅いランチを楽しむ。
 オードブル、ミネストローネ、サラダバーで野菜をたっぷりとって、メインディッシュはチキンソテー、最後にポットのミルクティーを楽しんだ後のこと。
 「先生、印章です。これが、父がウランバートルの空港で取り返した印章です」モンゴル出身のキャリアウーマンであるツアツアさんが、幾重にも布で包まれた印章をそっと差し出す。
 「わー、本当に戻ってきたのね。ありがとう。」
印章はずしりと重い。こんな大事になるとは思わずに求めた印章だが、手元に戻ったとなれば、解読しなくてはならない。
 「ねえ、何と書いてあると思う?」
 「ぜんぜん分かりません」
 印章には文字は全部で12書いてある。私に読めるのは「王」「賜」「印」の文字、しかし内容については分からない。

 自宅に戻ってから印章を写真で撮影し、インターネットの助けを借りて、判読できる人を求めた。答えは案外近くの人から出た。NIMICの理事でもあり、北京飯店のオーナーでもある楊さんからだ。
「書いてあるのは、天・佑・親・賜・摂・政・王・定・国・之・宝・印の12字です。」
 素晴らしい。楊さんは意味については「摂政王は清の王様です」とだけ説明があった。
 しかし、実は判読できてあっけにとられている。もし、この印章が本物であるとするなら、モンゴル政府が本当に返してくれるのだろうか、いやそんな筈はない。ではこれはレプリカか・・・・・。
 何だか書いてある内容が凄すぎて、印章そのものが疑わしくなってきた。

 「摂政王」といえば、間違いなく清初の皇族。満州族出身の初代清の皇帝であるヌルハチの14子が頭に浮かぶ。順治帝の摂政となり、清が中華王朝となるにあたって指導力を発揮した人物だ。そんな人物とかかわりのある印章が日本人の手元にあって良いものだろうか。しかも一度没収されそうになったものなのだ。

 意味の全ては判読できないが、「摂政王の国の宝の印」の部分は問題ない。前半の「天佑」がよく分からないが「親しく賜る」と解釈できるだろうか。手元に戻った印章が「精巧なレプリカかもしれない」という思いが強くなってきた。しかし、内容的には興味深い。

 このあたりの清とモンゴルの関係の年表を紐解いてみよう。ここにある「ドルゴン」が摂政王である。
◆1632年(天聰6)・後金 …ホンタイジ、内モンゴルの騒乱に乗じて進軍。
◆1633年(天聰7)・後金 …ホンタイジ、内モンゴル諸部を下し支配下に置く。ドルゴン(多爾袞)、リグダン・ハーンの所有していた「制誥之宝」印爾を得てホンタイジに献上。「制誥之宝」は大元伝国の玉爾と言われる。
◆1634年(天聰8)・後金 …ホンタイジ、瀋陽を盛京(ムクデン・ホトン)と改称する。
◆1636年(崇徳元)・清 …ホンタイジ、満洲人・モンゴル人・漢人の推挙を受けて改めて帝位に即く。国号を清に、部族の名称を満洲に改めた。 ホンタイジ、アジゲに命じて長城を越えて北京城外まで進軍させる。

 ドルゴン(多爾袞)は 1612年11月17日 - 1650年12月31日となっている。印章の記述はドルゴンが20歳の頃のことになる。はて、さて、・・・。

 辞典にはドルゴンが摂政王であることに対して、以下の記述がある。
 『ドルゴンの実力は群を抜くものであったが、部族連合制の名残を色濃く残すこの時期の女真族は独裁的なやり方を嫌い、ドルゴンの皇帝即位に激しく反対した。ドルゴンも反対を押し切ることが出来ず、ホンタイジの9子であるフリン(順治帝)を皇帝とし、ドルゴンがその摂政となることで妥協した。その後、ドルゴンは族内の反対派を粛清し、皇帝に等しい権力を手に入れた。
満州族の風習である弁髪を漢民族に強制し、「髪を留める者(頭を剃らない)は首を留めず」と言われるような苛烈な政策で支配を固めていった。1648年、その功績から皇父摂政王と呼ばれるようになり、…』

 中国の歴史ドラマ 『逐鹿中原(長河東流)』にも摂政王ドルゴンは登場するようだ。そんなにも有名な人が使った印章とはとても思えない。いっそのこと、商人の取引の記録用印鑑だったら、信じられたのに。

           (武蔵野大学名誉教授 佐々木瑞枝)




 
 
 Back to Top

HOME  |  ABOUTUS  |  ACTIVITIES  |  VOLUNTEER  |  CONTACT  |LINKS

NPO法人 西東京市多文化共生センター     Copyright (C) 2011 NIMIC All Rights Reserved.