西東京市多文化共生センター



NIMIC代表理事であり、武蔵野大学名誉教授の佐々木瑞枝先生の書き下ろしエッセイ『71日間、世界の青年たちとの船の旅(全27回)』をご紹介します。
    <NIMIC通信2007年3月~2009年8月掲載>




 71日間、世界の青年たちとの船の旅



「日本丸」甲板の上で 世界の青年たちと
筆者は前列の赤いワンピース




 第1回

 人には誰にでも「忘れられない旅」というものがあると思う。私もこの人生の中で実に多くの旅をした。そして今も、時間の余裕さえあれば、頭の中は旅の計画でアルファー波に満たされる。海外から無理な日程での講演を依頼されても、つい引き受けてしまうのは、「旅の魅力」があるからだろう。
 この3月はスイスのベルンにある日本領事館での講演が17日、18日とあり、20日に帰国、三日後の23日には台湾に出発し、24日、高雄で講演、25日、台北で講演、26日に帰国、「スイスから台湾では、気温差がありすぎる、どちらか断れば」と家族に言われ、考えたが旅の魅力には勝てず「大丈夫、アラスカからハワイに行くわけではないから」と、妙な言い訳をして旅に出ることにしてしまった。
 しかし、脳裏に浮かぶ「忘れられない旅」は世界の青年と過ごした71日間だ。今後、71日間も世界の青年たちと船上で過ごす旅は、もう二度とできないと思う。その旅はまさに「多文化共生」そのものであり、私の現在の思考様式に大きな影響を与えている。
 この通信ではその旅の記憶をたどりながら、皆さんにも「多文化共生の旅」を一緒に楽しんでいただければと思う。

 船は1万トンの日本丸、主催は総務庁、船に乗り合わせたのはドイツ、イタリア、モロッコ、ギリシャ、チェニジア、エジプト、クエート、アラブ首長国連邦、オマーン、パキスタン、インド、スリランカ、そして日本の青年たち、私は268人の世界の若者たちにアドバイザー講師として「日本文化論」を英語で講義することになっている。船はシンガポール、インド、エジプト、ギリシャ、オマーンと航海を続け、71日後に東京に戻る。
 船上ではどんな生活が展開されるのだろうか。私は今、期待と不安の入り交じった、実に不思議な感覚を味わっている。


 第2回  船の上の共通語は英語です

 船の上で、いつも会うとにっこりするギリシャの青年がいた。話したい。しかし言葉が通じない。彼の微笑みに魅せられたと伝えたい。しかし心も伝わらない。
 遥か遠い昔、言葉は一つだった。人間たちは神に近付こうと、天まで届く塔を建てようとした。怒った神は言葉を乱し、世界はバラバラになった…。旧約聖書の創世記に記された、バベルと呼ばれた街の物語だ。バラバラにされた私達が、再びひとつにつながるには、どうすればいいか?やはり、世界が一つになる言葉を使うしか方法はないのだろう。
 船の上での共通語は英語。アナウンス、ミーティング、壁にはられる掲示から、もちろん講義まですべて英語で進めなくてはならない。しかし英語を公用語とする国はインドくらいだから、あちこちでイタリア語訛りやアラビア語訛りの英語が飛び交うことになる。そのギリシャの青年も英語は苦手と見え、ギリシャ人仲間とは楽しそうにおしゃべりしているのに、ミーティングでは寡黙だ。
 日本人の英語下手は世界の認めるところ、「日本丸」の戦場(船上)では、おかしな会話がそこここで交わされている。
 「初め何を言っているのか、全然分からなくて」と日本の青年が言ったら、「君の英語も相当のニホンゴ訛り」とドイツの青年がからかう。
 「『職業は英会話学校の講師です』なんてとても言えないわ。話題の範囲が広すぎて、単語力が追いつかないもの」とT子さん。それでも青年たちの「話したくて仕方ない」という気持ちが会話を可能にする。キャビンで、食堂で、甲板でジェスチャーを駆使して、彼らは何とか会話を展開させる。十二人の講師たちも、講義の準備にかなりの時間を割く。
 私が講義を担当するのは「日本文化論」、英語で世界12カ国の青年を引きつけるにはどんな講義を展開すれば良いのだろうか。
 「これは苦行-」とは私の偽らざる気持ちである。


 第3回  船底には豚を飼っている?

 私の船室からはいつも、水平線が見える。マンションで言えば最上階の個室なので、部屋には窓の側にテーブル、(この上には書籍、ワープロやコピー機)、衣装ダンスやベッドと何不自由ない暮らしができる。ただし、船が揺れなければ・・・の話だ。
 それに比べると、各国の青年たち、特に男性たちの部屋は船底に近く、彼らの4人部屋の窓から見えるのは海の中だ。時には窓の外を海蛇が泳いでいたりする。さぞかしストレスの多いことだろうと思うが、青年たちは気にもしていないようだ。

「だって、船室にいるのは寝るときだけですから」と。

 24時間の一日の中で、3回の食事の占める時間は約5時間、とっても大事な情報交換の場であり、異文化を学ぶ場でもある。
 朝から夜まで船の上の食事は食堂でする。食事はすべてバイキングスタイルだ。この船のコックさんは「メニューには神経を使いますよ」と溜め息をもらす。
 それもそうだろう、牛肉を食べないヒンズー教徒、豚肉を食べないイスラム教徒とそれだけでもメニューが限定されるのに、魚も食べないベジタリアンもいるとなれば「バイキングスタイルが一番」と考えたのもうなずける。
 食事ごとに十種類もの御馳走がならび、それぞれに「ビーフ」「チキン」「ポーク」「ベジタブル」の札がつく。「多文化共生社会」で食事のスタイルも共生となると良いのだが、こと食べることとなると、宗教的な規制は誰も破ることはできない。
 共通の価値観を求めるよりも、それぞれの価値観を尊ぶのが「多文化共生」の中での「食の哲学」といえる。
 宗教的な規制がなく、好き嫌いもない人は、「どれも美味しそう」とついついお皿に取りすぎて、パンク寸前までお腹に詰め込むことになる。ただでさえ運動不足の上に、毎日美食を続ければどうなるか、考えてみるだけで恐ろしい。
 私も船に乗るときは、それなりの体型を保っていたのに、船を下りるころには体重が4キロも増えた。
 青年たちも、狭い個室にいるよりも、プールで泳いだり、甲板でバスケットボールに興じたりする方が楽しいに違いない。
 「でも、バイキングであまった食べ物はどうなるの」と聞いたら、青年たちから答えが返ってきた。

 「先生、心配後無用ですよ。船の底で豚を飼っているのです」と。

ウーム、今日はエイプリルフールでしたっけ。


 第4回  「制服」に賛成?反対?

 「世界青年の船」にはユニフォームがあった。
 日本丸が出航するときは、参加者全員が制服に身を包み、せっかく13カ国268人もの青年たちが乗っている船はベージュ一色となった。
 私がファッションコーディネーターなら、船が出港の際は「各自、思い思いのファッションをすること、できれば民族衣装を身にまとってください」といっただろう。
 そうすれば、船の上はさぞバラエティー豊かなものとなり、「多文化の文化の交流」が見送る人にも航海に出る青年たちにも目に見える形で実現できたのではないかと思う。
 
 しかし・・・である。出発の数ヶ月前に、参加者全員のサイズが洋服屋さんの手で計られ、制服は特注品として注文され、出発の数週間前には恭しく自宅に箱入りで届けられたのだ(もちろん、すべて税金で賄われている)。
 
 「私はあなたの制服です。これからの航海はこの制服に身を包み、「世界青年の船」の団体の一員としての行動をしてください」と制服は言っているかのようだった。
 
 「制服」というお仕着せを身につけることに対して、日本人ほど鈍感な国民はないのではないだろうか。
 デザインもまあまあ。呼び方も「標準服」ということにしたそうだが、英語になると「ユニフォーム」だ。
 
 全員が制服を着ることに対して反対の狼煙をあげたのは、ドイツ、ギリシャ、イタリアなどの青年たちだ。
 
 「着たい人などだれもいない」とドイツのマシアス。
 「日本の経済的ミリタリズムを見せたいんでしょう」とイローナが同調する。日本人の青年たちが「制服を着ると落ち着く」というのと大した違いだ。 もっともエジプトの背年がいう「服装で貧富の善が出なくて良い」という意見も一理あるかもしれない。
 日本人は子供のころから、体操の時に着る服は決まっているし、中学・高校になれば、大半が制服で授業を受けた記憶があるはずだ。
 
 企業に入れば「企業用制服」もある。
 
 これがミリタリズムに通じるか否かは、個人個人の意見があるだろうが、個性を埋没させる役割だけは十分に果たしていると思える。
 
 多文化共生社会に制服は無用だと考えるが、皆さんはいかがお思いになるのだろうか?

 第5回  甲板掃除

 今、日本の社会は格差社会に向かっている。若者だけではなく、高齢者にも格差が生じ、老人ホームも億の単位で入居する老人がいる一方で、一ヶ月10万円以下の年金で暮らす人々もいるという。

 しかし、「年収」に差があったとしても、我々の中に差別意識はない。単なる収入の違いなのだから。この意識はこれから多文化社会に向かおうとする日本にとってプラスの要因だと思う。経済的に貧しい国から来た外国の人々が、日本で低賃金労働に甘んじている現実が存在するが、それは国の経済の格差がもたらすもので、日本人はその人たちに差別意識は持っていないと思う。

 ところが残念なことに、それは世界に共通した意識ではない。私が「世界青年の船」に乗ったとき、船の甲板掃除をする機会があった。そこで私がショックを受けたのは、産油国の富裕な国から来た若者たちの、強い差別意識だったのだ。

 船はフィリピン沖を進んでいる。今日は甲板掃除の日だ。青年たちはショーツにはだしで、椰子の実で作ったタワシを手に甲板をこする。狭い船の中でエネルギーを持て余した若者たちにとっては、格好のスポーツだ。私もリズムに合わせてゴシゴシこする。

 「自分の国では、こんな仕事は絶対にしませんよ」と産油国から参加のXさん。「それでは、こういう仕事はだれがするの」。きっと答えは「女性」になるだろうと思って単純な気持ちで質問したら、「インドやパキスタンから来た労働者」という答えが返ってきて、驚いてしまった。

 Xさんに言わせれば、彼がそういう仕事をすると、外国人労働者の領分を奪うことになると言うのだ。ある産油国の青年は南アジアの国の青年と同室では困ると言ってきた。自分たち「雇う側」が「雇われる側」と同室にされては、支配階級と支配される階級の「区別」がなくなるというのだ。
 
 これは「区別」ではなく、明らかに「差別」であり、日本の青年たちには、そういった意識はない。
 
 日本でも近い将来、このような問題が起こるかもしれない。しかし、心の奥底に「多文化共生社会を夢見る」意識が存在すれば、「差別意識」など生じないのではないだろうか。


 第6回  国への思い

 長い間、船の上にいると平衡感覚は完全におかしくなる。いつも揺れている船の上を上手に歩けるようにはなったが、果たして地上に下りたとき、歩けるのだろうか。

 船の上でのピンポンも上手になった。足元がゆれる中で打ったボールは同じくゆれる卓球台に落ちる。地上とは違う感覚だ。

 船から見える夜空の星は、日本で見える星とはまったく違う顔をしている。暁の空に南十字星が輝く。日本では厳寒の季節に、私は13か国の青年たちと南の海にいる。夏のスーツも底をついてきた。船の上のクリーニング屋さんは大繁盛だ。皆、船に持ち込んだ服の着替えが少なくなっているのだろう。

 そして船はシンガポール港に錨をおろした。食糧と水を補給するためだ。1万トンの「日本丸」もここで小休止というところだ。
 
 今日一月二十六日はインドのナショナルデーだ。マハトマ・ガンジーがインドの英国からの独立運動を指揮したのだが、この日はまさにインドの独立を祝う日なのだ。
 
 ガンジーの「非暴力・不服従」を提唱した思想は、大英帝国を英連邦へと転換させただけでなく、政治思想として植民地解放運動や人権運動の領域において平和主義的手法として世界中に大きな影響を与えた。私たち、多文化共生を願うものたちにとっても、尊敬すべき人物の一人だ。
 
 そういう意味で、インドの独立記念日は共に祝う大きな価値のある日だ。
 
 朝六時に私たちは全員甲板に集まり、インドの国歌と共に、国旗を掲揚した。講師陣の一人インドのライ博士は、各国の人々から「おめでとう」の祝福を受け、「ありがとう」を繰り返す。
 
 インドの女性たちはサリーに身を包み男性たちもネクタイ姿。「今日は本当の意味でインドがスタートした日なのです」と。
 
 久しぶりにシンガポールの地上に足を下ろした。
 
 何だか足元がふらつく。地球の引力を久しぶりに味わっている。


 第7回  海賊が出るというマラッカ海峡

 船は、海賊の横行するというマラッカ海峡(マレー半島とスマトラ島間の海峡)を通過中だ。21世紀の今、海賊が出るなどとは信じられない話だが、私の乗った日本丸では、ものものしいアナウンスが流れ、船全体が警戒態勢で、張り詰めた空気が私たちの間を流れた。


 マラッカ海峡(マラッカかいきょう、Strait of Malacca、マレー語:Selat Melaka)は、マレー半島とスマトラ島(インドネシア)を隔てる海峡だ。海賊による事件が多発することから、別名「海賊海峡」と呼ばれているそうだ。
 
 我々の船は太平洋、インド洋と進むため、マラッカ海峡を避けては通れない。年間の通過船舶数は5万隻を超えるそうで、タンカー・コンテナ船など経済的に重要な物資が海峡を行きかう。
 この海峡の全長は約900km、幅は約70km~250km、平均水深は約25mで、岩礁や浅瀬が多い。このため我々の乗っている「日本丸」のような大型船舶の可航幅が数kmしかない場所もある。
 
 夜、甲板で青年たちと話し込んでいたら、突然サーチライトをつけた船がぐんぐん近づいてくる。「あっ、シージャック」とシモーナが叫んだが、残念ながらパトロール船だった。
 
 どうやら無事にマラッカ海峡を通過したようだ。
 
 「私はね、子供のころ宝島を読んで……」
 「僕はもっと現実の世界を考えるな。この間のシンガポールの革命の噂だって、ありそうな話だったと思わない?」
 「でも実際は何もなかった」
 
 こうして世界の青年たちと甲板で話しているうちにも、船は一路スエズを目指している。


 第8回  多文化共生は言語の習得から

 船の上というのは「海」に浮かんだ「多文化の教室」だとも言える。
 それも実に多くの文化と言語が「閉ざされた空間」の中で行きかう、生きた教室だ。
 グローバリゼーションの進む中で、英語が世界を闊歩しているが、船の上で一番使われる言語はアラビア語だろう。
 
 船の上ではアラビア語のレッスンが始まった。講師はエジプト人のバハ先生。エジプト、モロッコ、チュニジア、オマーン、クウェート、アラブ首長国連邦の参加青年たちが同じ母語を使ってコミュニケーションできるのは、日本語を母語とする我々にとっては、羨ましい限りだ。
 
 「アラビア語のアルファベットは全部でたったの二十九、簡単でしょう」とバハ先生はおっしゃるが、黒板の右から左に模様のような文字が続き、しかも文字が独立形のほかに語頭、語中、語尾に字形変化があると聞いて「とても無理、簡単な会話だけ教えてください」とKさんが言ったのも分かる気がする。
 
 「外国人が漢字を覚えるのは、もっと大変だと思うわ」と私が言うと、「本当にそうですね」と日本人の青年たちが同調する。「外国語と言えば英語と思っていましたが、改めて『言葉の多様さ』に気がつきました」とYさん。
 
 21世紀の今、世界の一体どれぐらい多くの地域でアラビア語圏の国々と他国の衝突が起きているだろう。
 
 キリスト教とユダヤ教の聖地エルサレムでも、衝突は起き、またイラク紛争もしかり、現在問題になっている「自衛隊の海上燃料補給」にしても、何のための補給かを考えると、仮想敵国としているのは「アラビア語圏」の国と地域だ。
 
 こんなことをしていて良いのだろうか。
 
 「日本丸」というたった1万トンの船の中ではあったが、アラビア語圏の若者たちが、嬉々として他国の青年たちにアラビア語を教えてくれた。そこには確実に「多文化が共生する」空間が存在した。
 
 地球を平和にするには、我々がもっとアラビア語圏の文化を理解すべきなのではないだろうか。
 
 私たちもアラビア語が覚えられますように。
 
 アッサラーム ― 「あなたに平安あれ」。
 

 第9回  船上の運動会

 日本丸は1万トンの船だ。
 「広い船内に入れば、楽しいことがたくさんあるに違いない」、と思って乗船したが、実は狭い船室と食堂を行ったりきたりの毎日、来る日も来る日も見えるものは青い海原と果てしない空で、「ストレス症候群」の患者たちが、精神科の先生のところに押しかけている。

 私自身は生来の「極楽トンボ」が幸いして、船酔いもなく、毎日、夕焼けを見ては溜息をつき、甲板で風に吹かれながら、青年たちと団欒し、乗船前より毎日、少しずつ体重が増え続けている。

 そんな船の上だからこそ、「運動会」を開催しよう、というGOOD PLANには誰もが飛びついた。
 各国の青年たちは何日も前からプログラムに趣向を凝らすため、ミーティングを重ねてきた。

 デッキでの、グループ縄跳び(十五人が一緒に飛ぶ)、卓球(ミックスダブルス)、ハードルゲーム(おしりで風船を割ったりラケットにポールを乗せて運んだり)、片面のみのバスケットボール(海にポールが落ちそうになったり)、どれも狭い甲板で可能で、しかも多くが楽しめる競技ばかりだ。

 運動会当日は素晴らしい晴天、甲板には参加者全員が運動靴に短パンスタイルで集まった。ゲームはどれも盛り上がった。我々の歓声は、きっと船の上を舞うカモメたちにも聞こえているに違いない。
 カモメたちまで嬉しそうだったからだ。

 とにかく信じられないほどのエネルギーと歓声が若者たちの体内からほとばしり出た。グループは各国の青年が混じり合うように分けられ、全部で十三のチーム。
 この日のメーンイベントは何といっても綱引きだ。

 甲板でV字の綱を引っ張り合う。甲板の長さに制限があるため、特に工夫された縄跳びスタイルだ。ぎらぎらと太陽は照りつけ、トーナメント戦のため応援に一段と拍車がかかる。集団の協調精神を養わせるという意味でもかなり効果があったようだ。
 また、こんな運動会がしてみたいと思う。
 各国の青年が仲良く綱引きをする運動会を!



 第10回  戦争によって分断されたドイツのその後

 東西ドイツの壁が崩壊するなどということは想像もつかなかった頃からすると、夢のような出来事が正に起ころうとしていた。「ベルリンの壁の崩壊」は歴史的な瞬間として記憶に留める人も多いと思う。
 
 ベルリンの壁(ベルリンのかべ、Berliner Mauer)は、1961年から1989年の間に存在した東ドイツ(東ベルリンを含む)と西ベルリンを隔てる壁で、東ドイツが建設したものだ。
 
 第二次世界大戦後、西ドイツ側をアメリカやイギリスを初めとする資本主義国が統治し、東ドイツ側を社会主義国であるソ連が統治することになった。この際に起きた思想の摩擦により壁が建設されたとされている。冷戦時代の象徴、そしてドイツ分断の象徴とも言われたが、1989年に破壊され、私が一昨年にベルリンを訪問した折には、一部が記念碑的に残されている以外存在しなかった。それはまるで、遠い過去のできごとのようだが、実際にはまだ20年の歳月しか流れていないのだ。
 
■ドイツ青年たちの予想外の反応 ― 統一問題で大ディスカッション
 ドイツの青年たちによって「ベルリンの壁」ビデオ上映会が「日本丸」のサロンで開催された。参加するのは、ドイツ以外の13カ国の青年たちで、ベルリンの壁崩壊を前に、東西ドイツ統一について、ドイツ青年たちがどう考えているかは、船上の最も興味のある関心事だった。
 
 ビデオそのものは、ベルリンの壁をめぐる東西ドイツの様子を、ドキュメンタリーふうに構成したもので、特に目新しいものではなかった。しかしその後に自然発生的に起こった、13カ国の青年たちの大ディスカッシヨンは特筆に値する。
 
 「戦争によって分断された国がまた一つになることは、本当に素晴らしいことだと思う」という意見に対して、ドイツの青年たちのリアクションは予想外だった。
 
 「自分たちが生まれる前から壁は存在し、その向こうは全く別の国」
 「同じ言葉を使っても、考え方はオーストリアより遠い」と口々に言う。
 現在法律を学んでいるインテリ青年ハナーは「もし統一されれば、EC諸国の中でも強力な国となる。ナショナリズムが強まれば……」と心配そうに「統一に反対」と結んだ。
 
■ドイツ統一後の旧東ドイツの変化と実態
 あの船上のディスカッションから長いときを経て、旧東ドイツでの変化は著しいものがあるようだ。自家用車、耐久消費財の普及などは、西側とほとんど同レベルにまで達し、収入も西の87%と格差は残っているものの、統一前にテレビに映し出された東ドイツとはまったく別の国に変容している。
 
 ドイツ統一は単なる東と西の再統一ではない。40年以上にわたって体制の異なる東西両ドイツが統一の名のもとに1つになったものの、いまだに残る東西の格差など外面的な問題だけでなく、統一に対する意識の違いや変化など内面的な問題も多いようだ。
 
 あの船上で「統一して力の強くなったドイツがまた軍事力をつけていったら」と危惧していたハナーは今ごろ何をしているだろうか。

                    

 第11回  大成功の鏡割りパーティー

 船の上にいると、門松もなければ、お正月の初売りのいつもの日本の正月風景もない。まして、船はインド洋上を公開中でキラキラと夏の太陽が肌を焼く。
 
 しかし、暦ではまぎれもなくお正月なのだ。船上に清酒の四斗樽が積み込まれ、鏡割りパーティーだ。青年たちはそれぞれの民族衣装を身にまとい、なかには粋な浴衣姿もいる。
 
 やはり、日本の浴衣は世界の民族衣装の中でも独特な雰囲気があり、どんなきらびやかな衣装にも引けをとらない。
 
 お酒は関西からの参加青年たちが持ち込んだもので、その名も「せな損クラブ」のメンバーが京都の清酒メーカーに寄付を仰いだのだという。「せな損」、「しなくては損」、関西弁というのは、こういう場合ユーモラスでいい。
 
 船に乗るまでの「せな損クラブ」の準備はすさまじく、何回も事前勉強会を重ねてきている。
 環境問題、出稼ぎ労働者問題、人種差別について、ODA(政府開発援助)について、原子力エネルギーについて、なかでも隆君が東欧諸国の動きについて「NEWS WEEK」の中から十一枚のリポートにまとめあげるなど、外国人青年とのディスカッションに備えた。素晴らしいエネルギーだ。
 
 「でも皆、危うくイスラム教徒になるところでした」とJさん。イスラム寺院に見学に行ったら、改宗に来たと勘違いされたという。
 
 パーティーは佳境に入り盆踊りが始まった。外国人青年たちも見よう見まねで踊っている。パーティーは大成功だ。
 
 盆踊りとお正月、ちょっと異質ではあるがこれも船上でしか味わえないお正月の迎え方だ。
                    

 第12回  船の中の通貨は円、郵便も日本の切手
 
 ヨーロッパの通過がユーロになり、フランスからドイツに行くにも、フランから、マルクに換える面倒な手続きはいらなくなった。
 しかし、・・・それでも、世界を旅するとき、やはりいの一番に空港でしなければならないのは、通貨の交換だ。
 最近は中国の元や韓国のウオンの価値があがり、行くたびに目減りする円を手に嘆かわしく思っているのは私だけではなないと思う。
 
 「世界青年の船」の旅では、あまり「通貨」を意識することなく、旅ができた。「にっぽん丸」にはさまざまな施設がある。クリニック、美容室、クリーニング、売店、郵便局などだ。
 どの施設も「円」でまかり通る。日本人にとっては非常に嬉しい限りだが、世界の青年たちはどう感じていたのだろうか。
 
 昨日までロングヘアだったドイツの青年が、いきなりGIカットになったりする。「シャンプーまでしてもらって千百円、安いなあ」とは彼の感想だが、アジア、アフリカの青年たちにとっても、果たして「安く」感じたのだろうか。
 
 今でこそ、東南アジア諸国もインフレが進み、物価は日本に近づいていはいるものの、やはり船の上の全ての物価が「日本基準」だったことには、とまどいは隠せない。インドやシンガポールに下船した短い時間に、現地で必要な買い物をする青年たちが多かったからだ。
 
 船の中でも私たちが一番お世話になるのがクリニックと郵便局だ。船酔いの患者から船の鴨居に頭をぶつけて五針も縫ったエジプトの青年まで、お医者さまは大忙し。内科、婦人科、外科と一人で総合病院の役目を果たされる。中には「妊娠しているかもしれない」と検査を頼む女性までいて「出産じゃなくてよかった」とはお医者さまの弁。
 
 船内の通貨は円なので、郵便物にも日本の切手が使われる。郵便物は寄港地から航空便で日本に送られ、それからアジア、アフリカ、ヨーロッパへ。受け取った人は日本からの郵便物と思うかもしれない。
 
 「皆さん、明日はボンベイに入港します。ラブレターを書いた人は、お早く郵便局へ」と。さあ、私も郵便局へ急ごう。
                    

 第13回  ボンベイでの日程
 
 船が港に錨を下ろした。大地に足を下ろすのは本当に久しぶりだ。揺れている船の上でうまく歩けるようになった体に、揺れない大地は戸惑うかもしれない。
 
 朝八時、船はボンベイに入港、港では軍楽隊が我々を迎えるために歓迎の音楽を演奏し、我々はタラップを制服に身を包んで厳粛な気持ちで降りていく。歓迎のセレモニーの間、我々は「起立」の姿勢で式に臨む。高校時代でさえ、制服を着るのが苦手だった私にとっては、初めての「厳粛な」体験である。
 
 代表の武者小路先生が英文で挨拶を述べ、軍楽隊の高らかなトランペットの音で式は終わった。さあ、これからインドの大地で何が起きるのだろう。
 
 ボンベイ一日目はバスで何箇所も移動し、公式訪問で一日が終わった。総務省の指揮下にあるのだから当然かもしれないが、早くインドの大地を歩き回りたい!
 
 ボンベイ二日目。六時起床、七時空港へバスで、空路デリーへ、十時半デリー着、十二時日本大使館でランチパーティー、二時バスで観光、五時半副大統領表敬訪問、六時インド青年との交歓会、九時半ホテル着、十時夕食、そしてやっと部屋にたどり着いた時は、皆すっかり疲れ果てていた。ああ・・・・!
 
 三日目、四時半起床、列車でアグラへ。
 かつて栄華を極めたムガール帝国の首都として栄えた町。皇帝シャー・ジャハーンが愛妻ムムターズ・マハルの死を悼み建てた名建築タージ・マハールはあまりにも美しい。
 我々は夢中でシャッターをきる。でもインドの青年の「タージ・マハールは、確かに美しいかもしれません、でも亡くなった王妃のために建てても王妃は生き返らない。先生、インドの貧しさとタージ・マハールの美しさ、それが正に今のインドなのです」と。
 
 列車でホテル戻ったのは夜の11時だった。
 
 四日目、五時半起床、空路ボンベイへ。十二時船上でゲストを迎えてランチパーティー、そして六時に船は港を離れた。ああこれが公式訪問というものか。余りにリッチなメニューに食傷気味だったのは、私だけではないようだ。
 
 「僕たちは、タイムテーブルの上を回る駒」とはギリシャ青年の感想だ。せっかく陸にあがったが、自由に歩き回れた時間はアグラの観光のみだった。
 
 私たちは、生きているインドを本当に見たのだろうか。
 
 (筆者はこの後、一人でインドを再訪した。本当の姿を見てみたかったのだ)
 
                   

 第14回  アレクサンドリア
 
 我々の乗る「日本丸」は、第二の訪問国エジプトのアレクサンドリアに入港した。エジプトというと「カイロ」と思われがちだが、船で行く場合にはやはりアレクサンドリアだ。
 
 アレクサンドリア(Alexandria)は、カイロに次ぐエジプト第2の都市である。
 現地語であるアラビア語では「アレクサンドロス(アラビア語でイスカンダル)の町」を意味するアル=イスカンダリーヤ(al-Iskandariya)という。マケドニア王アレクサンドロス大王が、
その遠征行の途上で、オリエントの各地に自分の名を付けて建設したギリシア風の都市の第1号である。
 海岸線が実に美しい。
 
 エジプトのアレクサンドリア(アレクサンドレイア)は紀元前332年に建設された。一時は人口100万人を超えたともいわれ、「地中海の真珠」と呼ばれる美しい港町からパトの先導で、一路カイロへ。
 
 バトは日本で言うパトカーだが、サイレンを鳴らしながら進むバトは赤信号も無視してどんどん進む。その後に続く我々の数台のバス、エジプトの人は馴れているのかもしれないが、我々にしてみれば、
「世界の賓客」として扱われているという思いと「ここまでしなくても」という思いが混在する。日本では考えられない光景だ。
 
 元宮殿であったという最もゴージャスなホテル「マリオット」に落ち着く。
 「日本丸」で海の上の暮らしに慣れた我々には、「揺れない」カーペットの上を歩くのは異質の世界に来たかのようだ。
 
 「エジプトに行ったらまずピラミッド」というのはだれにも典通な思いだろう。三百人の一行は九台のバスに分乗して、三人の王たちの「ギザの三大ピラミッド」へ。
 
 21人のエジプトの参加青年たちが率先してガイド役をかって出る。「何だか観光旅行に来たみたいで、気がひけるな」と言う声に「そんなこと言わずに楽しんで」とエジプトの青年たち。
 
 「先生、ここまできたら、ラクダに乗らなくては」とへバやモハメッドがけしかける。硬い背中に恐る恐る跨がったら、いきなりラクダが大きな声で呻いたので、みんな大喜び。
 
 インド訪問のあとタイトなスケジュールに対する批判が出たためか、今回は時間的にもかなり余裕のあるものとなった。
  

 第15回  日本丸、最後の航海
 
 船はアラビア海を航海中だ。アラビア海という日本人には聞きなれない名称だが、アラビア海はインド洋の一部で、アラビア半島とインドとの間の海のことだ。
 アラビア海の北西部には、今回の主要な訪問国の一つであるオマーンに面したオマーン湾がある。
 
 アラビア海に面する国はインド、パキスタン、イラン、オマーン、イエメン、アラブ首長国連邦の6か国で、我々の乗る「日本丸」はこの六カ国のうちの二カ国のインド、とオマーンに上陸する。
 船の上の参加者の顔ぶれを見ると、インド、パキスタン、オマーン、アラブ首長国連邦と、実にアラビア海に面する国から40名以上の青年たちが参加していることになる。
 
 あさってには紅海、来週にはスエズ運河を抜けて地中海に入る。「地中海に入ると、海が荒れるかもしれませんよ。低気圧が通過しやすいですからね」と船長さん。
 二十五歳から船に乗って三十二年間、海と生活を共にしてきた。
 
 神津定剛さん。達者な英語を操り青年たちにとても人気がある。「戦前、戦後を通じて日本の客船としてスエズを通過する船は、このにっぽん丸が初めてなんですよ。
 しかも今年がこの船の最後の航海、来年はスクラップになっているかもしれません」と船長さんは感慨深げに言われた。スクラップにするには惜しい美しい船だ。
 
 アジア青年の船として十六回も航海し、今回はインド洋を抜けてアラビア海、そしてスエズ運河から地中海と引退前の花道興行のようだ。
 
 日本丸にはフィリピン人の作詞・作曲による「にっぽん丸の歌」まである。名前を残したいということで、新造船が「にっぽん丸」の名前を受け継ぐということだ。
 
 「今晩は皆既月食が見られますよ」という言葉にデッキに出ると、空には満月が輝き、船は静かに最後の航海を続けていた。


 第16回  エジプトのアレクサンドリアに入港
 
 船旅の醍醐味は海からその国を見つめられること、そして第一印象は船から見た国土だ。
 船は第二の訪問国エジプトのアレクサンドリアに入港した。
「地中海の真珠」と呼ばれる美しい港町はそれは美しく、長い船の上の生活から開放される喜びも手伝ってか、船の上には不思議な興奮の気配が漂う。
 
 「ようこそ、私たちの歴史ある国へ」とエジプトのリーダーが満面の笑みを浮かべている。
さあ、下船だ。
 ブラスバンドが歓迎の演奏をする中、我々はタラップを一段一段降りていく。
 
 私も日除けのパラソルとサングラスで武装しているが、心のそこから湧き上がる未知の国への期待に心が胸の中に収まりきらないほど期待に膨れ上がっている。
 
 これがもし、飛行機でカイロの空港に一足飛びに行ったとしたら、同様の喜びがあったのだろうか。
 アレクサンドリア マケドニア王アレクサンドロス大王が、その遠征行の途上で、オリエントの各地に自分の名を付けて建設したギリシア風の都市の第1号である。
 「地中海の花嫁」とも呼ばれる港町アレクサンドリアでは、街中に英語の看板も多く、大きなサッカー場もある。
歴史的経緯から多くの文化的な要素を合わせ持ち、専用バスに乗り込んだ我々の目を釘付けにする。

 エジプト警察のパトカーの先導で、一路カイロへ。
 サイレンを鳴らしながらパトカーが信号もとならずに突っ走り、その後に9台のバスが続く。日本では考えられない光景だ。
 
 われわれは元宮殿であったという、当時では最もゴージャスなホテル「マリオット」に落ち着く。
 「エジプトに行ったらまずピラミッド」というのはだれにも共通な思いだろう。
 
 三百人の一行は九台のバスに分乗して、三人の王たちの「ギザの三大ピラミッド」へ。二十一人のエジプトの参加青年たちが率先してガイド役をかって出る。「何だか観光旅行に来たみたいで、気がひけるな」と言う声に「そんなこと言わずに楽しんで」とエジプトの青年たち。
 
 「先生、ここまできたら、ラクダに乗らなくては」とへバやモハメッドがけしかける。硬い背中に恐る恐る跨がったら、いきなりラクダが大きな声で呻いたので、みんな大喜び。インド訪問のあとタイトなスケジュールに対する批判が出たためか、今回は時間的にもかなり余裕のあるものとなった。

   

 第17回  ヨーロッパの青年たちは下船~『さようなら』楽しかったね

 アレクサンドリアを出航した船は、ポセイドンの神に守られてギリシャへ向かう。ヨーロッパやアフリカの青年たちとの別れが迫っている。この船で、彼らの存在はなんて大きかったことだろう。

 イタリアの青年たちがいなくなると、夜の甲板では音楽はもう流れない。
 各グループの知的リーダー役だったドイツの大学院生が去ってしまうと、グループ活動はしぼんでしまいそうだ。美しい民族衣装で船の上を歩いていたチェニジアの女性たちの「ファッションショー」はもうなくなってしまう。
 
 ギリシャで、イタリア、ドイツ、ギリシャのヨーロッパの青年たちとエジプト、モロッコ、チュニジアの北アフリカの青年たちが下船してしまうのだ。
 
 「先生、最後の授業はトップデッキでしましょうよ」とギリシャのコスタス。
確かに良い考えだ。さんさんと輝く太陽の下で、皆、書道の腕を振るう。
 
 「清書は色紙に書いて、おみやげにしましょうね」
 「船が止まっていればもっと上手に書けるのに」
 「エクスキューズ(言い訳)があって良かったね」
 
 デッキ一面に半紙を広げ、大格闘の末、どうにかそれらしいモノが仕上がった。
 
 「このクラスは本当に楽しかった。二度と同じメンバーで勉強すること、もうないんですね」とシモーナが言うと、「でもこの授業のことは絶対忘れない」「私も」と皆、口々に言う。
 
 皆と握手を交わしながら、思わず涙がこぼれそうになる。私こそ忘れない。
いつまでも。これだけ凝縮された異文化の船の旅、私にとっても、おそらく一生に一度の旅になるに違いない。

     

 第18回  『観光名所』のストライキ

 ギリシャのビレウス港に船は錨をおろした。私たちは8台のバスに分乗して、古代ギリシャの面影を残すアクロポリスの丘に向かう。

 季節は冬。2月なのだから寒いのは当然といえば当然だが、インド洋やオマーンといった夏の国からいきなり冬の国に放り込まれた感じだ。

 青年たちは引き出しの輿から冬服を取り出して、がっちりと着込む。私も晴海埠頭を出航するときまで着込んでいたセーターやコートを引っ張り出す。

 冬の身づくろいを終えて、いざアクロポリスの丘へ。ところが入り口で我々は入場を拒まれてしまった。入場券売り場には「ストライキ決行中」の看板が立ち、ネズミ一匹通さない厳戒態勢だ。

 考えてみれば古代遺跡は国の文化財だから、ここで働いている人たちは国家公務員ということになる。彼らは賃上げを求めて時限ストライキの最中だったのだ。

 「先生、私たちにまかせてください。世界の青年たちが見たがっているアクロポリスを、まさかストライキといって閉鎖するのはおかしい」、ギリシャの青年がいくらプログラムの趣旨を説明したところで、入場を阻む「国家公務員殿」にとっては、馬の耳に念仏。ストはストなのだ。

 「午後三時においで。ストは3時までだから」の言葉に8台のバスは引き返す。今日はバスも電車もストのため、道は非常に渋滞している。

 「私達はスト慣れしているの。ギリシャの経済状態は最悪だもの、無理ないでしょ」とソフィー、「でもストが解決策になるとは思えないけど」とK君。

 K君は彼の持論を展開させたが「経済大国の人には、理解出来ないでしょうね」と言われて一言も無い。日本で観光施設がストで閉鎖など、聞いたことがないからだ。

 午後、木枯らしの中をパルテノン神殿へ。「ソフィー、経済は今度にして写真とって」 「OK、続きはこの後ね」私たちは風の吹き抜ける白い神殿でポーズをとる。

 「それにしても、こんなストライキをしていたら、ギリシャ経済は落ち込むばかりでしょう」経済談議はしばらく続きそうである。
     


 第19回  アテネ日本人学校の子どもたち

 ビレウスに停泊中の「にっぼん丸」にアテネの日本人学校の子どもたちが遊びに来た。広い船の中に子供たちのはしゃいだ声がよく響く。
 子供たちもこんなに大きな船の中を見るのはよほど珍しいのだろう。
 船内の売店を見ては「あっ、カップヌードル売ってる。懐かしーい」と歓声をあげる。今や、カップヌードルも懐かしい「お袋の味」なのだろう。
 「日本人こんなに見るの久しぶり」と、100人の日本人青年たちを前に嬉しそう。ギリシャという異国の地で、ギリシャ人社会の中のマイノリティーとして生活する子どもたちにとっては、日本語の通じる我々が100名も船にいるということ自体が喜びであるようなのだ。
 「母語とは何と有難い存在」と子どもたちの無言のメッセージが伝わってくる。
 子どもたちは船の中を駆け回り、青年たちもうれしそうに相手を務める。
 「日本の学校で“落ちこぼれ”と見られていた子どもでも、ここで手をかけて教育すると、みるみる実力を発揮しだしますよ」と先生。
 「もともと子どもに落ちこぼれなんて、いないんでしょうね」と私。中学校からはアメリカンスクールに進む子どもも多いという。
 「日本では成績に自信がなくて、ゲームセンターに入りびたっていた二男が、アメリカンスクールでは白分から積極的に勉強しだして……日本にいたら、勉強嫌いで終わっていたところでしたよ」と一流商社の代表を務めるZ氏。
 ここで伸び伸びと育った子供たちが帰国した時、日本社会の狭い「良識」に潰されないことを願うのみである。
     


 第20回  船上の修了式

 今日は全員が正装している。民族服のパキスタンやインドの女性たち、タキシード姿のドイツの青年たち、日本の青年たちもビシッとしたスーツ姿だ。

 「着物を持ってくればよかった」が率直な感想、こういうときは、日本人はどんな華やかなドレスよりも着物が引き立つ。今日は船の上で「世界青年の船」の講座の修了式が行われるのだ。

 ギリシャでお別れのドイツ、イタリア、ギリシャ、のヨーロッパの青年たちとエジプト、チェニジア、モロッコのアフリカ諸国の青年たちとはここでお別れだ。

六カ国の青年たちの、一人々々の名前が呼び上げられ、青年たちがそれぞれの思い出と共に、精一杯の拍手を受ける。

ディスカッションのリーダーに、バスケットの名手に、ここで誕生した素敵なカップルに、「ペレストロイカ新聞」の編集長に、そして目立たなかったけれど多くの友人を作った彼女に。

 この「世界青年の船」の修了証にはつぎのような言葉が番かれている。
「あなたは、…世界的視点に立った共通の課旗の研究、討論などの活動を通じ……南西アジア、中近東、アフリカ、ヨーロッパ及び日本の十三カ国の参加青年の相互理解と友情を……」

 大抵こういう番類はきれいごとが書かれていて内容にそぐわないことも良くあるが今日は違う。ここに書かれている以上のことが、この船の上で展開した。何という大きな「夢」を青年たちはこの船で得たことだろう。
そして私自身、生涯忘れられない多くの場面が胸に刻み込まれている。

 大海原に真紅に燃えて沈む太陽を見ながら思う、
 
 彼らにいつか再び会いたいと!
      


 第21回 オマーン 歓迎の出迎え

 「皆さん起きてください。オマーンに着きました。たくさんの小舟が歓迎してくれています。デッキに出て歓迎に応えましょう」。
 船のベッドは適度な揺れで、私はいつも熟睡してしまう。
 その日は、元気いっぱいの拡声器の声に起こされた。

 あわてて服を着て甲板に出ると、白い長衣の青年たちが小舟を操り、「にっぽん丸」を迎えてくれている。約五十隻もいるだろうか。
 1万トンの船のまわりにいる小船は、まるでガリバーが見知らぬ国に流れ着いたような心境になる。
 
 「オマーンてどんな国なのかしら。ここに来るまでは、名前もよく知らなかったから」とTさん。
 「砂漠の中に石油採掘の柱、というイメージだけど」とO君が自信なさそうに言う。
 
 私もオマーンに船が着くまでに、俄仕込みの予備知識を頭にたたきこんだのみ。
 日本人にとって、アラブは世界で一番遠い国の一つなのだ。
 
 大型サイロの建ち並ぶ近代的なカブース港から、首都のマスカットに向かうバスの中で、私たちは余りに美しい景観に思わず息をのんだ。
 白いアラビア風の建物にブーゲンビリアが彩りを添えている。海岸沿いにはグリーンベルトが続き、高速道路には高級車が溢れている。

 岩山がその間に顔を覗かせている。近代的なビルと奇妙なコントラストを見せる。国士の80%が不毛の砂漠ということだが、マスカットにいる限りそのイメージは浮かんでこない。
 オマーンでは一体何が起きるのだろうか。私たちは、いよいよ見知らぬ国に踏み込んだ異国の住人という気がする。
    


 第22回  オマーンという国

 今回の訪問国の中で「未知の国」であるオマーン。おそらく観光旅行では訪問する機会のない国だろう。
 
 オマーンはアラビア半島の南東部にある「スルタン」が治める君主国で、今回は君主であるカブース大王にも謁見することになっている。面積は日本の三分の二にあたる30平方キロメートルということだが、大部分は砂漠なので、広さで比較することはできない。

 現カブース国王(スルタン)が即位された1970年以後、オマーンは驚くほどの早さで近代化されたんです」とガフールさん。「青年の船」のオマーンのリーダーであり、オマーン国営テレビのディレクターでもある。

 「実際これほど国民に尊敬されている国王はまずいないでしょう」と現地の商社員。国王は国家収入(その約八割が石油収入)を道路の整備、教育などに充て69年には3校しかなかった学校が、88年には735校に増えたという。
 どこかの国の総理大臣に聞かせたい話だ。
 
 「今スルタンは閣僚たちをひきつれて、地方巡幸の真っ最中。国民たちは王様に直接直訴も出来るんです。毎年ラマダンの前三週間がこれに充てられるんですよ」と日本大使館の田中参事官。

 オマーンの青年たちは、ことあるごとに国王の話をしていたし、全員が国王の写真を持ち歩いていた。カブース王は強力なリーダーシップを発揮しながら、これからも絶対君主制を維持していくだろう。若者がどのように育っていくのか、興味のあるところである。
 

 

 第23回  オマーンは英国と並ぶ海上帝国だった!

 オマーンの首都であるマスカットの知事を代表の十人でお訪ねした。十九世紀、オマーンは東アフリカからパキスタンにまたがる海上帝国を築き、英国と並んでインド洋の二大海上勢力の一つであったという。そのころからマスカットは海の玄関として繁栄し、現在はマスカットを中心に首都圏が形成されている。

 その要職にあるサイード知事は白い長衣にターバン、腰には美しい飾りのついた短剣という礼装で我々を迎えてくれた。物静かな口調でアラビア語を話され、国王の従兄弟であり、教育青年省次官のサリム氏が英語に通訳する。何という優雅な教養を身につけた政治家たちだろう。日本の政治家を思い描き、この人たちと太刀打ちできる人が要るのだろうかと、一瞬、東洋の島国の人材不足を思った。

 「オマーンの方は良く日本のことを御存知なのに、日本人はあまりオマーンのことを知りません。この機会にオマーンのことを紹介できればと思います」と申し上げるとニッコリされ、「カブース国王もお忍びで日本を訪問されたことがありますし、たくさんのオマーン人が日本を訪ねています。この機会にもっとオマーンを知って頂ければと思います」。と。

 「青年の船」に乗っているオマーンの若者たちもそうだったが、オマーンの人達は穏やかで、誠実で、押しつけがましさが無く、どちらかと言えば日本人の物腰と共通したところがある。日本はオマーン石油の最大の輸出先であり、また日本にとってもホルムズ海峡を自国領に持つオマーンは原油の輸入先として大変重要な国なのである(封鎖の心配がない)。

 美味しいアラビアコーヒーが先程から際限なく私のカップに注がれている。カップを横にふる「ノー」の動作を忘れていたためだ。今度オマーンを訪ねるときは、もう少し勉強してこよう。そしてマスカットから千キロのところにある緑の楽園サラーラを訪ねてみたい。
 

 

 第24回  兵どもが夢のあと

 オマーンでアラブ首長国連邦やクエート、そしてオマーンの中東の青年たちが下船し、船は閑敏とした感じだ。
 
  夜甲板で毎晩のように聞かれたイタリア青年たちの歌声も今はなく、異国情緒ただよう、クエートの女性たちの民族衣装も今はない。
 
 インド、パキスタン、スリランカ、日本の四カ国が残るのみだ。昼食後パキスタンの美少女アマリーンが部屋に訪ねてきた。青年たちのプロフィルを見ながら、思い出を話し合った。
 
 「エジプトのH…彼は知的だったわ」
 
 「ドイツのH…船の中で大統領を選ぶとしたらまず彼ね。彼ならきっと約束を実践するもの」
 
 彼女はふと遠くを見るように「このプログラムに参加してとても良かったわ。アフリカやヨーロッパの青年たちとこんな出会いをすることは私の一生を通じてもうないでしょうから」と呟いた。
 
 しかし、アジアの青年たちが船にいるうちは、まだ静かではあるが、「異文化交流」の姿が船のあちこちで見られた。しかし、ついにシンガポールでアジアの青年たちが下船すると「にっぼん丸」は日本人だけになってしまった。
 あとは祖国日本、晴海埠頭を目指すのみだ。家族は迎えにきてくれているだろうか。  

    

 

 第25回  別れのコンサート

 船は明日シンガポールに着く。インド、パキスタン、スリランカの青年たちはここで下船し、船には日本人の青年たちだけが残る。なんとも寂しい限りだ。

 アジアの青年たちとの別れを惜しんで、プロムナードコンサートが開かれた。日本人青年たちの歌うアヴェマリアの歌声が静かに響きわたる。そしてスリランカの青年たちの歌はまさに私たちの今の気持ちにぴったりだ。

 「親はお互いに仲違い、でも子供たちはそんなことを考えず、ただ無心に遊ぶ。仲良く、分け隔てなく、親の思惑など気にせずに」

 この船に乗り合わせた青年の国も、政治の世界では必ずしも仲良くないところもあった。しかし青年たちは無心な子供たちのように友情を育てていった。

 総務庁はこのプログラムに六億円かけているという。参加した青年たちが自国に帰り、日本との強い絆となるなら、決して無駄な費用ではない。

 来年はスピードアップした新造船の「にっぽん丸」でアメリカ、コスタリカ、メキシコ方面へ旅立つという。多文化共生の旅がいつまでも続くことを願わずにはいられない。


 

 第26回  同窓会

 船上での数ヶ月を懐かしみ、時々思い立ったように、同窓会が開かれる。
 先日は邦子さんからの呼びかけで、麻布のイタリアンレストランに十数人が
集まった。
 
 邦子さんは、船の上ではもっともチャーミングな日本女性の一人だった。
あるアラブの青年が邦子さんと恋に落ち、船の上で二人はいつも一緒、
ある夜などは邦子さんから「先生、晩餐会の席ですが、彼の隣に座りたくて・・」と
頼まれたこともある。
 
 素晴らしいカップルの誕生、帰国して数ヵ月後、邦子さんはアラブ首長国
連邦に嫁いでいった。
 そして、同窓会、見る影もなく痩せこけた邦子さんが、男の子を3人も連れて
同窓会に現れた。
 
 「邦子さん、どうしたの、やつれたね」と政男さんが邦子さんの肩に手を
触れた途端、邦子さん顔色を変え「手をどけて。うちの彼に見られたら、
殺されるよ」という。ジョークにしては彼女の眼差しは真剣そのものだ。
 
 後でこっそり聞いた彼女の打ち明け話、結婚はしたければ、夫の嫉妬が
強くて、家から一歩も出られない生活、奥さんを大事にしてくれているのだが、
しかし、日本という自由にどこにでも行ける環境で育った邦子さんには
精神的苦痛は相当のようだ。
 
 今回の帰国は「畳が恋しくて、畳を買って帰ります」とのこと。
 アラブの裕福な家にとついでも、自由はお金では買えない。
 恋はひと時、結婚は一生、あの華やいでいた船上の邦子さんを思い出さずには
いられない。
     

 

 第27回(最終回) 「南十字星の下で(最終回)」

 神様から「願いを一つ叶えましょう」と言われたら、あなたは何を願いますか。
家族の健康、それとも子供の就職?

 私はと言えば、もう一度、船で世界を回りたいと思っている。

 できれば同じメンバーと。

 あれから数十年、青年たちから時々便りが届く。政府の要人になったエジプトの青年、テレビ局のプロでユーサーとして報道に生きているオマーンの髭もじゃの彼、ナポリ大学で教えているというイタリアの美少女。

 日本政府は「金は出すが人は育てない」とよく悪口を言われる。しかし、総務庁企画による「世界青年の船」は着実に世界に人の輪をつくりその人たちとの信頼関係は揺ぎ無いものとなっている。

 みんな、いつか、また集まろうね。
 南十字星の下で。

  完
   

 


 
 
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